東京地方裁判所 昭和25年(ワ)2385号 判決
原告 国松繁次
被告 川合吉之助 外一名
一、主 文
原告と被告川合吉之助との間に東京都江戸川区西一之江一丁目五百三十六番地所在木造瓦葺二階建一棟建坪七坪五合外二階五坪につき被告川合が賃借権を有しないことを確定する。
被告田口清は原告に対し前項の家屋の階下を明渡せ。
訴訟費用は被告等の負担とする。
この判決は原告において被告田口に対し、金一万円の担保を供するときは第二項に限り仮に執行することができる。
二、事 実
原告訴訟代理人は主文第一乃至第三項同旨の判決並びに仮執行の宣言を求める旨申立て、その請求の原因として主文第一項掲記の家屋は原告の所有に係り、原告は右家屋を被告川合に対し昭和十三年七月十二日以降賃料一月十八円(賃料は後に増加されたが)毎月末日払、賃借人において賃貸人の承諾を得ないで賃借権の譲渡又は賃借家屋を転貸したときは賃貸人は催告を要しないで、直ちに賃貸借契約の解除ができるという約束で期間を定めないで賃貸し、被告川合は右賃借家屋に居住していたが、昭和二十四年四月二十六日千葉県下に転居し原告に無断で本件家屋を空家とし、賃借権を放棄した。ところがその後になつて同被告は原告に無断で被告田口に本件家屋の賃借権の譲渡又は転貸をなし、同被告を居住させている。しかし被告川合は前述の如くすでに賃借権を放棄したものであるから、その権利を失つているばかりでなく、仮に賃借権を放棄したものでないとしても原告は前示賃貸借契約の約定条項に基き被告川合の賃借権の無断譲渡又は無断転貸を理由として、ここに同被告に対し本件家屋賃貸借契約解除の意思を表示する。従つて以上何れの点からしても被告川合は本件家屋について賃借権をもつていないのにかかわらず、賃借権の不存在を争つているので、同被告に対する関係において賃借権不存在の確定を求めると共に、被告田口は正当の権原がないのに本件家屋の階下を占有しているから原告は所有権に基き同被告に対しその占有部分の明渡を求めるものであると述べ、被告等の抗弁事実を否認した。<立証省略>
被告等訴訟代理人は、原告の請求を棄却するとの判決を求め、原告主張事実中原告主張の家屋がその所有に係り右家屋を被告川合が原告からその主張の如くその主張の約旨の下に賃借居住していたが、昭和二十四年四月二十六日本件家屋から他え転居し、被告田口をして本件家屋の階下に居住させたこと、又被告田口が右階下を現に占有していることは認めるが、その余の点は否認する、右階下は被告川合も営業の連絡所として被告田口と共に使用しているのである。と述べ、抗弁として(一)被告川合は原告の同意を得て本件に(イ)ヒヂカケマド(六尺に二尺五寸のもの)(ロ)物干(六尺に九尺のもの)(ハ)襖四本(ニ)雨戸四枚(一間に二枚立てのもの)の造作をした外、本件家屋台所の部分に木造トタン葺二坪五合を建増し、壁修理のためベニヤ板五枚を使用し、又家屋の出入口に連台等を附合させたので、右造作買取並びに附合により原告が取得した物件についての不当利得返還方について原告に交渉したが、原告において右交渉を拒否したので右造作等の管理のため、被告田口を本件家屋に住込ませたのである。(二)仮に被告川合が被告田口に本件家屋の賃借権を譲渡したものであるとしても右譲渡については原告代理人(氏名不詳)の承諾があつたものであるし、(三)更に右承諾がなく無断譲渡だとしても現在の世情並びに取引の実情に鑑み、正当の事由がない限り無断譲渡だけを理由とする賃貸借契約の解除は無効と解すべきものである。従つて以上(一)乃至(三)の何れにしても被告田口に関する限り本件家屋占有の正権原があるものであると述べた。<立証省略>
三、理 由
原告主張の本件家屋が原告の所有に係り、右家屋を被告川合が原告からその主張の如くその主張の約旨の下に賃借居住していたが、昭和二十四年四月二十六日本件家屋から他え転居したことは本件当事者間に争がない。ところで原告は右転居により被告川合が本件家屋の賃借権を放棄したと主張しているので、この点について考えると、元来賃借権は賃借人としての義務を伴うもので、債権債務の関係であるから単なる権利ではないので一方的に放棄できるものではなく、賃借権の放棄というのは賃貸借契約の合意解約についての賃借人からの申込であると解する考方もあるが、賃借人が賃借家屋から再び復帰する意思がなく立去つて行方不明となつたような場合に、その退去を目して解除の申込と解することができるとしても、この申込に対する賃貸人の承諾を賃借人に表示するためには公示送達にでもよる外はないであろうし、更にその賃借人が相続人がないままに死亡したらどうにもなるまい。又無断退去を解除の申込と解することも無理であろうと思われる。他方現在における取引の実情からすれば賃借権を他に処分するのでなく、単に放棄するだけならば相手方の賃貸人にむしろ利益をもたらすことはあつても、何等その利益を害することはないというのが一般である。右事情を考慮すれば、放棄に関する限りは賃借権の権利的要素に重点を置き、負担附権利と考え特にその放棄が相手方賃貸人に不利益を与えるような特段の事情が認められない限り、一方的に賃借権放棄をなし得るものと考えてもよいと解せられる。(旧大審院の判例中にも賃借権放棄の観念を認めているものがある。大審院昭和五年(オ)第二七四七号)唯如何なる場合に賃借権の放棄があると認め得るかが問題なのであるが、賃借人の賃借物件を再び占有使用しない意思が客観的に看取できる事情の下に賃借物件の占有使用をやめたときに(死亡の場合は除外すること勿論である。)賃借権の放棄があると考えてもよいであろう。本件について考えて見ると、証人田口コト事田口ことの証言(第一、二回)並びに原告本人の供述によれば、被告川合が本件賃借家屋を退去するに際つては、すぐ向側に住んでいる原告の差配にも何等の話もなく空家として了つたもので、右事実を聞知した原告は被告川合の行方を探したがわからないので、わざわざ千葉県行徳町に住む同被告の母を訪ねたが、同被告の行方を知ることができなかつたところ、本件家屋に被告田口が入り込んで来た後に、被告川合が肩書地に住んでいることがわかつたので、同被告を訪ねたが、被告川合は被告田口のことは自分の関知したことではないといい、本件家屋については何等関与しない旨の態度を示していることが認められる。証人大塚勇の証言中右認定に副わない点は信用できないし、他に右認定を左右し得る証拠はない。右認定に係る事実からすれば被告川合は転居後すでに肩書地に住居を構え、本件家屋に復帰する意思のないことも明かに看取できるので被告川合は本件家屋より他え転居し、右家屋を空家としたことにより、将来に向つて本件家屋を再び占有使用する意思のないことを表示したものというべく、従つて賃借権を放棄したものと解するのが相当である。従つて爾来同被告は本件家屋について賃借権がないものであり、しかもその賃借権の不存在を同被告が争つていることは本訴における同被告の主張自体により明かであるから同被告との間に右賃借権の不存在確認を求める原告の本訴請求は爾余の点に関する判断を待つまでもなく正当であつて認容さるべきものである。
次に被告田口については同被告が本件家屋の階下を占有していることは当事者間に争がない。ところで同被告が階下を占有しているのは、被告川合が本件家屋についてなした造作買取等の交渉に応じないので、その造作物の管理のためであると云うのであるが、この点についての証人大塚勇の証言は到底信用が措けないものであり、他に右事実を認め得る何等の証拠もないので、同被告が被告川合のために造作等の管理のため階下を占有したという抗弁は採るに足らない。次に被告田口が原告代理人の同意を得て被告川合から本件家屋の賃借権の譲渡を受けたとの抗弁は原告の予備的主張に対して述べられたものであるが、右賃借権譲渡の事実は(原告代理人の承諾の有無はさておき)これを認め得る何等の証拠もないばかりか、被告川合がすでに判示した如く本件家屋から他え転居して賃借権を放棄した以上、その後において賃借権譲渡を認め得る余地はない。従つて被告田口が本件家屋の階下を占有し得る正当の権原について他に何等の主張立証のない本件では同被告は原告に対しその占有部分の明渡を拒み得ないものといわなければならない。して見れば右の明渡を求める原告の請求も亦正当である。
よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条、第九十三条第一項本文を適用し又仮執行の宣言については主文掲記の範囲において付するを相当と認めて同法第百九十六条を適用し、その余の部分に対する仮執行の宣言を求める申立は不当として却下すべきものとし、主文の通り判決する。
(裁判官 毛利野富治郎)